はたんきょう(巴旦杏)

大阪近郊の鉄道(主に新線建設や計画)について

上杉景勝と後藤又兵衛とおおさか東線[更新]

今回は普通の鉄道ファンにはあまり興味を引かない話かもしれない。

私の見る限り、鉄道ファンは基本的に理系、歴史ファンは文系なので、その両方に興味があるという人は多くはなさそうだ。

記事のタイトルを見てわかる通り、今回の記事の内容は歴史の話がメインである。

今年 2019年3月におおさか東線が開業(旅客化、複線化、及び電化)したが、線路自体は戦前に開通しており、その多くは戦前の時点で既に高架、もしくは築堤上(盛り土の上)に建設されていた。

なので、今回の新規開業部分(放出駅〜新大阪駅間)もほとんどが高架、もしくは築堤上にある。ならば当然、踏切などは存在しないはずである。

ところが、実は新規開業部分には一箇所だけ踏切がある。それが、鴫野駅から北へしばらくいったところにある蒲生踏切である。

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(2019-10-06写真を追加)

線路は高架、築堤上にあるはずなのになぜ踏切があるのか。普通に考えればそういう疑問が頭に浮かぶだろう。

現地を訪れてみればわかるが、蒲生踏切のある場所は、地形が台地上になっていて、道路がその上を通っているため、線路と同じ高さになっている。そのため踏切で横切らざるを得ないのである。

そしてこの台地状の地形は、かなり細長い形をして東西に延びている。

さて、1614年の大坂冬の陣の際、鴫野一帯で戦闘が行われたが、そのことについてウェブサイトを調べてみると、「鴫野一帯は湿地帯で軍隊の通行に適した場所が限られていた」という意味のことが書かれている。

大坂方(豊臣秀頼軍)は大坂城の東を守るため、軍隊の通行が可能な街道上に幾つかの防御拠点を築いていた。徳川方は当然、防御拠点に攻撃をかけてきた。この時起こったのが今福の戦いと鴫野の戦いであり、現在、そのことを示す記念碑も付近に立っている。

当時の大和川(現在の寝屋川)を挟んで北側で行われたのが徳川方の佐竹勢 vs 大坂方の戦いでこれが今福の戦い、南側で行われたのが同じく徳川方の上杉景勝軍 vs 大坂方の間で行われた鴫野の戦いである。

その際、佐竹勢が進軍しようとしたルート、それがまさに、先ほど述べた蒲生踏切のある細長い台地だったらしいのである。今回の記事で一番言いたかったことはこのことである。

大坂方からは実質的な総司令官だった後藤基次後藤又兵衛)が打って出て一旦は佐竹勢を敗走させるも、南から上杉景勝軍他が圧力をかけてきた(その時点では南で行われた鴫野の戦いはすでに終わっていた)ため、大坂方は撤退を余儀なくされた。結果としてこの局地戦は徳川方の勝利だった。

 

私は上杉景勝という武将が好きである。ほとんど笑顔を見せたことのないちょっと変わった人だったとも言われている(笑)が、私自身もコミニュケーション能力が高い方ではないので、彼のような人間には親近感がわく。

また大坂方の後藤又兵衛も武勇には優れていたが人間関係のトラブルで黒田家から暇を出された(笑)人物らしいので、こちらも親近感を禁じ得ない。

おおさか東線が全面旅客開業して半年が経つが、今でもいわゆる大回り乗車の一環として乗ってみることがちょくちょくある。そして、私の乗った電車がおおさか東線区間唯一の踏切である蒲生踏切を通過するたびに、私は400年前の上杉景勝後藤又兵衛の雄姿に想いを馳せるのである。

(実際には上記の通り、蒲生踏切の側で戦ったのは佐竹勢であり、上杉勢は南から圧力をかけただけなのだが、上杉びいき、後藤びいきなので(笑)。もっとも、佐竹勢も関ヶ原の戦いの際、関東(常陸国)にありながら西軍に近い立場をとってくれたという意味では親近感はある)。